市邨学園の創立者、市邨芳樹先生は、私人の理想を土台とする私学教育を、地から立ちのぼる陽炎にたとえています。じつは日本資本主義の父、渋沢栄一も、市邨先生の言葉に共感を示していました。
渋沢栄一は明治維新期に、複式簿記導入を奨励したり、多くの銀行や企業を設立したりと、日本に資本主義を根づかせるべく尽力した偉人です。最近では、大河ドラマの主役や新一万円札の図柄でも話題になりましたね。
その渋沢があるとき、市邨先生の言葉を借りて、日本の商業教育は民間の支援によって成立したのだから「陽炎のやうに下から発達したもの」「天から降つた雨でなく地から生じた霧の如きもの」だと述べました。
たとえば日本初の商業学校、商法講習所(現在の一橋大学)は、官立ではありましたが、民間の助力がなければ存続できませんでした。この学校を所管する東京府は、不充分にしか経費を出さず、明治一四年にはとうとう学校廃止を決めてしまったからです。当時の日本には、商業に学校教育が役立つことを理解できる人は多くありませんでした。
商法講習所がこの危機を乗り越えられたのは、渋沢ら民間人有志の寄付のおかげです。また渋沢の呼びかけにより、農商務省もこの学校を補助するようになりました。
渋沢が商法講習所に肩入れしたのは、校長の矢野二郎先生に感化されたためでもあります。熱血漢の矢野先生は、自腹を切って同校の運営を支え、生徒一人一人に行きとどいた教育をするべく骨身を削りました。
かつて商法講習所の生徒だった市邨先生は、矢野先生の後継者だといえます。市邨先生が、日本に女性のための商業教育が存在しないことを嘆き、市邨高校の前身たる私立名古屋女子商業学校を設立したのは、すでに公立の名古屋商業学校(現:名古屋市立商業高校)の校長として活躍していた時期でした。いったん社会的成功を収めながら、理想を求めて新しい道へと踏みだしたのです。そのために私財を投げうち、私立学校長と公立学校長の兼務という重労働を担うこともいといませんでした。
矢野先生はあるとき、市邨先生に「君と僕とは明治の馬鹿気質なり」と述べたそうです。自分の後を追い、けわしい道を歩む市邨先生にエールを送ったのでしょう。すると市邨先生は「先生の大愚にあやかりたいと思います」と答えました。渋沢はそんな二人を「この師にしてこの弟子あり」と評しています。