私学、陽炎の教育

市邨芳樹先生が、市邨学園の前身である名古屋女子商業学校を創立したのは明治40年のこと。その背景には、維新の改革者たちから受け継いだ理想がありました。

前回は市邨芳樹先生と、渋沢栄一氏や、商法講習所(現在の一橋大学)校長矢野二郎先生との交流についてお話ししました。では、市邨先生は先輩の渋沢氏たちから何を学んだのでしょうか。
幕末に西洋へ渡った日本人は、その自由と平等に驚きます。身分差別がなく、言論や経済活動も自由。元農民の渋沢氏はフランスで、日本の武士にあたる軍人が、町人の銀行家と対等に話すのを見て感動しました。
やがて渡航者たちは、自由こそが西洋社会を発展させた原動力だと気づきます。福沢諭吉氏は三度の洋行で、言論の自由が議論を活発にし、名案を生むと知りました。また渋沢氏は、株式会社と銀行が商業活動を援助し、富や優れた技術をもたらす仕組みに注目します。人々が株を買い預金をすると、そのお金は起業家や発明家に貸し出され、事業開拓や商品開発に使われるのです。
身分差別を打倒した西洋人は、対等な市民が協力しあって支える社会を築きました。そこでは市民の自由な議論や商取引、資産運用が、社会をおのずと発展させます。たいして当時の日本では、幕府や藩が命令し、庶民はいやいや従うだけ。西洋は太陽、日本は北風ですね。
日本を西洋型の協力社会にしたい。その思いから、福沢氏は「学問のすすめ」で、勉強して有意義な議論ができる市民になろうと呼びかけ、渋沢氏は株式会社や銀行の普及に努めました。
市邨先生の商業教育も、協力社会の実現を理想としています。先生がとくに憂慮したのは、当時の日本商人が悪徳商法に走りがちなことでした。徳川時代には商業が軽蔑されていたため、商人も開き直ってしまったのです。本来なら、商業こそは市民を取引という協力関係で結び世間の需要を満たす、協力社会の大黒柱なのに。
市邨先生は誇り高き商人を育てたいと願い、「商人にして自覚的に其の天職の尊貴を認め、需要者の便益を計ること自己の利益を計ることに劣らず、以て社会に貢献するを念とせば、其の行動は之を仁と称するに恥じず」と語りました。社会的動物である人間は、その気がなくても社会に尽くす。商人はとくにそうで、当人は金儲けのつもりでも、必要な商品を提供して人々を助けている。ましてや世のためを思って良心的に働く商人は、立派な善行をしている、というわけです。

市邨先生と市邨塾生
エッセイ

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